能代の七夕行事

能代の8月は七夕行事で幕をあけます。

能代の七夕行事は、江戸時代より庶民の心意気として伝承され続け、灯籠はおよそ三百年を経た現在も能代の夏の夜に輝き続けています。

  1. 能代のねぶながし行事
  2. こども七夕
  3. 天空の不夜城
  4. 役七夕

能代の眠流し(ねぶながし)行事
能代の役七夕と灯籠の変遷

能代役七夕の由来は阿部比羅夫や坂上田村麻呂の蝦夷との戦いにまつわる伝説もありますが、実際には宇野親員が記した『代邑聞見録(たいゆうもんけんろく)』にその頃の様子が記録されています。

寛保元年 (1741)

『代邑聞見録』 宇野親員

7月6日から7日朝にかけての行事は「眠流し」と呼ばれ、夜になるとこどもたちが5人、10人と組みになり、太鼓、笛、鉦を奏でながら「ねふねふ流れ豆の葉にとまれとまれ」と囃したてながら町中、灯籠を持って練り歩いた。

この頃の能代では、現在のような形ではないにしても灯籠をかかげての「眠流し」行事が行われていたことが記されています。
「眠流し」は「ねぶり流し」「ねむり流し」「睡流し」など様々な呼称があり、7月7日の七夕祭りの前日の7月6日、夏の睡魔とともにけがれや悪霊を流し去り、無病息災、家内安全を祈る盆行事のひとつとして、秋田県のみならず広い地域で行われていました。もともとはこどもの行事で、笹竹などに絵馬や願い事を書いて吊るし、こどもたちが町をねり歩き、舟や灯籠を川へ流したりしたものでしたが、ロウソクが庶民の手に入るようになると灯籠に灯をかざして町を廻るようになりました。

『代邑聞見録』の記載から 『代邑聞見録』の記載から70年ほど経た能代の「眠流し」は大きく変化を遂げます。

高張提灯『秋田名物帖』天明年間
(1781~1789)
秋田県立図書館蔵

文化12年 (1815)頃

『秋田風俗問状答』 那珂通博

「・・眠流しと言うと、城北の能代の港ではことに華やか。幅2丈(約6メートル)、高さ3丈~4丈(9~12メートル)にも及ぶ様々な工夫を凝らした屋台人形で、蝋を引いた紙に五彩を彩り、瑠璃燈(るりとう)の様である。年々、新奇を競い壮観である。」

『秋田風俗問状答』の灯籠は大勢の人で担ぐ形状でしたが、灯籠の大型化に伴い車輪をつけて曳き回すものへと変化します。

『秋田風俗問状答』那珂通博
国立国会図書館蔵

天保13年 (1842)

『奥のしをり』 二代目 船遊亭扇橋(せんゆうていせんきょう)

「一日より七夕祭と申して大漁万作と名づけ、灯籠をこしらえ、五日までは町々を子ども持ち歩き、六日の夜は毎年、年番町があり・・・高さ五丈八尺(17~18メートル)ぐらい、大きさ三間(5.5メートル)四方。神功皇后三韓退治、加藤清正朝鮮征伐そのほか様々の形をこしらえ、ロウソク一晩に五、六百丁も入れて・・・町々を曳き歩き夜明けまで騒ぎ・・年番ではない町内からも加勢という灯籠を・・」

この当時の灯籠は『秋田風俗問状答』に屋台人形とあり、『奥のしをり』には神話や武者の姿とあります。

かつての城郭型灯籠(年代不詳)
能代市提供

明治時代

明治期の記録としては放浪画家、蓑虫山人(土岐源吾1836~1900)の描いた能代七夕がありますが、描かれた図は城郭型灯籠とは程遠い形状のものです。明治期の記録によると大亀、三宝に酒樽と鯛、安芸の宮島、五重塔など様々な灯籠が繰り出されていたとあります。

 

今に伝わる城郭型灯籠は、大工である宮腰屋嘉六( 今に伝わる城郭型灯籠は、大工である宮腰屋嘉六(1830~1944)が、名古屋城を模して巨大な灯籠を作り出したのが始まりと言われます。城郭型の灯籠が主流となったのは明治後期のこととなるようです。城郭型灯籠は明治後期から大正初期にかけて製作にその技術を競い、規模も巨大化して能代七夕のシンボルと言えるものとなりました。またこの頃は、年番以外に地元の事業家も有志七夕として灯籠を出すなど、七夕行事は最盛期ともいえる賑わいをみせます。

明治41年 (1908)

しかし明治41年から始まる能代市街の電線・電話線架設に伴い、巨大灯籠の運行は著しく制限され灯籠は小型化された現在の形状へと移り変わります。

昭和21年 (1946)

戦時中、能代七夕は中断を余儀なくされますが、終戦の翌年昭和21年には復活を遂げ今日まで伝統は守り続けられてきました。

平成25年 (2013)

平成20年に電線が地下に埋められた国道101号で、平成25年からおよそ百年ぶりに再現された大型の城郭型灯籠が曳き回されて、能代七夕の伝統を現代に結んでいます。

現在の役七夕灯籠

再現された城郭型灯籠 天空の不夜城

8月2日 子供七夕

◆主催(平成29年) こども七夕実行委員会

眠流し(ねぶながし)はそもそもこどもたちによる行事であったようです。
能代の七夕行事でも「一日より七夕祭と申して大量万作と名づけ、灯籠をこしらえ、五日までは町々のこども持ち歩き、六日の夜は毎年々番町があり・・・」と船遊亭扇橋(せんゆうていせんきょう)の『奥のしをり』にもみえるように、江戸時代からこどもたちが行事に参加していました。
こどもの頃から行事に参加し、その伝統を実感することにより能代七夕の継承へとつながり三百年もの長い歴史を刻んできました。

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8月3日・4日 天空の不夜城

◆主催(平成29年)能代七夕「天空の不夜城協議会」

明治時代の能代七夕では、灯籠が大型化して高さ五丈八尺(17.6メートル)もある名古屋城を模した城郭灯籠が曳き回されましたが、電線の仮設により灯籠は次第に小型化を余儀なくされました。
しかし平成25年には当時の大きさそのままの17.6メートルの城郭型灯籠が復元され、江戸時代の灯かろく籠作者宮越屋嘉六の名を取り「嘉六」と命名されて能代の町で曳き回されました。更に翌26年には戦国時代の檜山城主安東愛季の名を冠した「愛季」(24.1メートル)が作られ「嘉六」とともに能代の七夕の夜を彩るようになりました。およそ百年ぶりに巨大城郭型灯籠が曳き回されて能代七夕の古い伝統を現代に結んでいます。

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8月6日・7日 役七夕(ねぶながし)

◆主催(平成29年)役七夕における五丁組

能代の七夕行事は前述の『奥のしをり』天保13年(1842)にも記述されているとおり、江戸時代から五丁組を呼ばれる町人組織により年番制により行われてきました。
年盤制度の内容には多少変化もありましたが、明治18年までは交互に、翌年19年からは五丁組による年番制となり、現在も引き継がれています。
年番にあたる組の町(おおちょう)内間でもその年の代表となる町内を大丁と言い、年番制の他町内は加勢丁として行事を担います。年番にあたる町内は、それぞれ重要な役目を担うことで能代七夕は成り立ってきました。
そこから役七夕という呼称が生まれたと考えられます。

役七夕という呼称は、萬町(あらまち)の呉服商相沢金一郎の明治30年の日記に初めて見られるものです。「萬町当番なり。役七夕は大町村上与兵エの作にて五丈なり。宮島の景なり」とあります。また俳人である河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が能代を訪れた際には明治40年の私信に「役七夕といって、鯱鉾(しゃちほこ)を乗せた大灯籠を作るのは萬町の当番・・・」とあります。
明治後期に役七夕の呼称が使われていたことがわかります。

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